はじめに(誰かの触発によって…)

先月だが、約二週間、ヨーロッパに旅行に行ってきた。

ヨーロッパといっても、ロンドン、パリ、ベルリンの主要都市であるが。

 

元々、旅行というものは、あまり好きではない。

というのも、いつも以上の体力が必要だし、時差などで生活のリズムも大きく変化してしまう。

 

また、読書が習慣となっていて、誰かの本を読むことは、ある種、旅に近い。

それを盾に、誰か(主に元恋人)に誘われても、断っていた。

金もかかる。その金があれば、たくさんの本を買える…

 

しかし、本と旅行は全く別次元のものだ。

実際に、旅をして強くそう思う。

 

とはいえ、そもそも、本と旅を等価に捉える考えは一体何だろう。

あらゆるものを等価にしてしまう貨幣的なメタファーかもしれない。

そのメタファーは、人の行動を制限して、心を貧しくしてしまうだろう。

 

東京には、たくさんの外国人観光客がいた。

彼ら彼女らは、自分にとってただの風景にしか過ぎなかった。

東京に限らず、街のコンビニや飲食店では、多くの外国人が働いている。

それも、自分にとって、ただの風景にしか過ぎなかった。

 

ただの風景としての外国人。

いや、外国人に限らず、これまで自分は人間を風景としてしか見ていなかった。

それは、人と交流する喜びや楽しさを、身体全体で楽しんだことがなかったからだ。

しかし、僕はそれを変えなければならないだろう。

内面的な本の世界から、何と豊穣で喜びに満ちた世界へ。

 

別の視点をとってみる。

端的に言って、世界は腐臭がするほど腐敗しきっている。

唯一の希望が、自殺しかないような耐え難い「リアル」。

 

昨日、もの珍しいのか、カメラに向かって笑顔になっているガザ地区の少女が、テレビのニュースに一瞬映った。

世界は、ますます最悪に近づいて、崩壊しかけてはいるが、ガザの少女の笑顔のような一瞬の

煌めきは世界に無数に満ち溢れていることを、自分の底にあるオプティミズムによって直観した。

 

”Rejoice”!

Yeatsの詩句で、大江健三郎の引用によって、頭にこびり付いている言葉。

”喜びを抱け”!

 

こんな世界で、喜びを抱くというとんでもなく途方もない暴挙。

しかし、ここでもHuckleberry Finnの、大江の引用が…

”All right, then , I'll go to hell"

”よろしい。じゃあ、僕は地獄へ行こう。”

 

喜びを抱きながら地獄へ向かう…

(I'll leave for hell with rejoice...)

 

話を元に戻す。

自分を観光客という風景として、旅行した雑感を記す。

正直、自分が見たヨーロッパは想像の範囲内だった。

それは、表面的に地図上の道を辿るようなものだった。

 

しかし、地獄へ向かう前の、下準備として。

自分の記憶は、風化しやすく脆弱なので、備忘録としても。