モホリ=ナジは『絵画・写真・映画』で写真を例示しながら具体的に彼の写真理論を述べている。
簡潔にまとめる。
カメラ=光学的装置としての光学的側面、換言すると機械技術的側面が前景化した写真を肯定的に捉えている。
重要なのは、写真を「光学的に把握できるものの視覚表現」と定義していることだ。
その先駆として、天体、稲妻、レントゲンの写真を挙げている。
そして、彼はその路線を徹底すべくフォトグラムと形成写真(フォトモンタージュ)に着手する。
彼の批判対象は、単純に外界(モホリは「自然」と述べている)をコピーした写真および演劇的行為を写像しただけの映画である。
彼は批判する。
”写真家は自分のカメラを写真的に用いないで、画家になっている”
現行のほとんどの写真家は、「綺麗な」「壮大な」「フォトジェニック」(この言葉は一体何を意味しているのだろう?)な写真ばかりを撮っている。*1
「綺麗な」「壮大な」「フォトジェニック」と形容される写真が肯定される理論的根拠は、視覚への「快」のみにすぎない。
もしかしたら、崩壊しかけている世界への徴候的態度かもしれない(しかし、それなら別の仕方でなされなければならない)。
残念ながら、それらは単に被写体の表面を光学的装置でなぞっただけである(これが、写真家が他の芸術家より軽侮される所以でもある)。
モホリ=ナジは、(当時の)映画について「形態、透過、明暗連関、運動、テンポの緊張」が精錬されずにいると指摘しているが、これらは写真の重要な構成要素でもある。
なぜなら、カメラ=光学的装置を媒介にする点で映画も写真も同一だからである。
しかし、写真こそ映画より「形態、透過、明暗連関、運動、テンポの緊張」を的確に表現できると言えるだろう。
というのも、映画は映画それ自体が持つ時間性と、それによって自然発生的に形成されてしまう物語性によって、それぞれの要素が薄められたりあるいは過度に強調されたりして的確に表現出来ないからだ。
写真は映画に先行して誕生した。
映画は「まずい」写真群を動的にモンタージュしただけに過ぎない。
故に、映画におけては「カット」は(「カット」が対象を光学的装置においてモホリ=ナジが指摘する上記の四つを的確に表現したものとするならば)、存在しない。
それは、写真によって厳密に確実に達成される。
(しかし、映画の時間性によって別の位相の「カット」の達成が考えられる。およそ映画における「カット」はそのことを指しているのだろう)
また、モホリ=ナジはこう指摘する。
”その自然風の(「色彩写真もしくは映画の機械的光学的な色彩表現造形」を指している)まがいものの色の感傷性はそのとき何の痕跡も残っていないだろう。”
色の感傷性。
具体的にはフィルムのテクスチャー、質感である。
フィルムの質感とは端的にノスタルジーである。
撮ったその瞬間からその写真を見ている時間差あるいは撮った瞬間よりももっと前の何かへの。
あるいは被写体の、存在のfragileness?vulnerability?
しかし、モホリ=ナジの立場を徹底するなら、色の感傷性=フィルムのノスタルジーは放棄しなければならないだろう。
あるいは、ノスタルジーを喚起させる仕方でのフィルムの使用はモホリ=ナジの立場からは導かれない。
とはいえ、フィルムをどう使うかは重要な問題であるので別の稿に譲りたい。
我々の現実では、あらゆるものがデジタルを介して存在している。
知覚、認識、思考までもがデジタルに侵されている。
デジタル化された認識をフィルムによってある種人間主義的な回帰を図ることは、反動的であるが決してラディカルではない。
それは単なるノスタルジーである。
モホリ=ナジの立場を徹底しよう。*2
フィルムは別の形で現実を歪めてしまう。
フィルムの質感(粒子/粗さ)によって、写真は現実を取り逃してしまう。
現実を現実として、正しく確実に写像できるのは幸運なことに(不幸かもしれない)デジタル処理のみである。
そして、カメラ=光学的装置としての光学的側面を十全に発揮できるのはデジタル処理である。